「ポーランド現代美術における《ヨーロッパ回帰》」(?)

 

 国立国際美術館学芸課主任研究官 加須屋明子

 

 本日は、「ポーランド現代美術における《ヨーロッパ回帰》」(?)というタイトルでお話させていただきます。タイトルの最後に「はてな」をつけましたのも、「ヨーロッパ回帰」という場合の「ヨーロッパ」という概念が多分にフィクションであり、またある一定のイデオロギーに沿って「ヨーロッパ回帰」という言い回しを用いる場合が多いように思うからです。ただし、全くの作り事かというと、もちろんそういうわけではなく、かなりの根拠もある上でこのようなイメージ戦略をとっている、というところではないかと思います。

 限られた時間ですので、ポーランド現代美術の状況をまんべんなくご紹介するのではなく、主として2005年夏から秋にかけて国立国際美術館で開催され、現在は広島市現代美術館で開催中の、中東欧現代美術に関する展覧会「転換期の作法 ポーランド、チェコ、スロヴァキア、ハンガリーの現代美術 Positioning---In the new reality of Europe: Art from Poland, the Cech Republic , Slovakia and Hungary 」展 出品作品を中心としてご報告させていただこうと考えております。広島では実は本日がオープニングで、来年の18日まで開催いたしました後、東京都現代美術館に巡回予定です。東京展の会期は2006121日から、326日までです。皆さま是非ご高覧ください。

http://www.jpf.go.jp/j/culture_j/news/0506/06-06.html

 

 さてこの展覧会の企画は、今から7年ほど前に国際交流基金と東京都現代美術館とで持ち上がりました。当時、1989年の体制変換の後10年の節目を迎えるということで、ヨーロッパ各地で中東欧の美術、特に第二次世界大戦後から現代までの美術を紹介する展覧会が一種のブームとなっておりました。鉄のカーテンの影に隠れて(西側社会には)見えなかった美術の様子を知りたい、という動きが高まったということです。最初の展覧会企画案もまた、そのような流れに乗るものでした。最初は、すぐにも実現を、という勢いで、5年前あたりで国立国際美術館にもこの企画についてのお話を頂戴いたしまして、私は以前よりポーランドの現代美術に関心を持って調査を続けており、既にグループ展でポーランド作家を2名紹介したり、ポーランドの作家の個展を開催したりしておりましたため、非常に興味を覚え、是非とも共同開催をと思い、調査も重ねましたが、以後なかなか企画が進展しなくなってしまいました。主に経済面での問題や、当館の移転のことなどもあり、途中何度か紆余曲折を経つつ、時間が過ぎてしまいました。もういささか、当初案からは時間が経ちすぎているのかと思われた頃に、2004年、中欧主要四カ国を含む10カ国がEUに加盟するということになりまして、1989年以降の大混乱が、やや収まりかけたと思われた状況が再び大きな変化を被ります。これをきっかけとして、2005年の展覧会開催が決定し、ようやくこの度実現の運びとなりました。

 展覧会タイトルですが、日本語の「作法」にあたるのが「Positioning」、その後の「In the New Reality of Europe」の部分を「転換期」と意訳しております。新しいヨーロッパの現実の中での位置取り、生き延びるための様々な戦略、手法、というような意味合いがございます。つまり、1989年に起こった共産主義から資本主義への大きな変化、それから2004年のEU加盟に伴う、政治経済社会上の変化を受けながら、美術作家たちがそれに対してどのように反応し、作品がどういう風に変化しているのか、というようなことに焦点を当てております。

 従って、作家や作品選定の際にも、何らかの変化の兆しの感じられるものを選び、勢い、若手中堅の作家の占める割合が高くなっています。ほぼ3040代の作家が中心で、若干20代の作家も入っています。現在40歳前後の作家は、89年当時10代後半から20歳あたりであり、教育は途中まで旧体制の元で受けております。つまり急激な変化を身を以て体験した世代であります。彼/彼女らが現在美術界の中堅を担うような世代となって参りまして、自らの希有な体験を元に作品をようやく発表しはじめているところではないかと思われます。

 なお、本日はいくつか作品の画像をお見せしますが、やはり画像で御覧いただくのと実際の作品では全く異なるものでありますし、今回は映像作品の割合も高く、なかなか静止画像ではわかりづらいかと思います。皆さま是非とも、広島、あるいは東京にて、実際の作品を御覧いただきますように。

 それでは実際の作品を見ながらのお話に移りたいと思います。

 

 

 これは、アルトゥール・ジミェフスキ Artur Żmijewski (1966- )<<歌の練習1>>です。ビデオ映像です。ジミェフスキがワルシャワの聾唖学校の生徒たちと共に行ったプロジェクトで、ポーランドの教会で、パイプオルガンの伴奏に合わせてキリエを歌う、というものなのですが、実は生徒たちは耳が聞こえず、声も上手く出すことができません。そのために、手話を交えつつ歌っているといっても、なかなかそれは歌声には聞こえて来ないと思います。この作品ですが、大阪でも広島でも展覧会の冒頭に持ってきております。その理由としては、今回の展覧会のテーマ、すなわち、厳しい状況の中でもへこたれないタフさ、それから立場の弱い者、弱者への確かなまなざし、あと、ユーモアのセンスといいますか、厳しい状況下で、ただ必死にがんばる、というのではなくて、どこかふっと力を抜いて、状況を離れた所から見る、斜めから見て笑ってみる、というようなユーモラスな部分が感じられるからです。実際、ビデオの中でも彼/彼女たちは大変楽しそうに歌の練習を致しております。歌声は奇妙なもので、恐らく観客の皆さまは最初何をしているのかよくわからなくてとまどわれるのではないかと思います。ですが、しばらく御覧になれば、生徒たちの耳がどうやら聞こえないらしいこと、教会であること、パイプオルガンの荘厳な音、など状況の輪郭が次第に見えてくるのではないかと思われます。

 

 

これは、同じくジミェフスキの<<我らが歌集>>です。ジミェフスキは、イスラエルのテル・アビブに赴き、そこに暮らすポーランド人に「覚えているポーランド語の歌を歌ってください」と頼みます。60年前、戦争中もしくは戦後まもなくに祖国ポーランドを出て何らかの経路でイスラエルに辿りつき、そのまま、恐らく一度も帰っていない老人たちは、普段はポーランド語を使うことも少なくなっているのかも知れません。また、健康を害して病院に入院していたり、身寄りがなくて施設で暮らす人々もおられます。ただ、どういう事情でどのような過程を経てここにやって来たのか、というような個々の事情は一切語られず、ただただ「ポーランド語で歌を歌ってください」というリクエストが繰り返されます。最初はなかなか歌詞が出てこなかったり、忘れた、と言っていても、だんだんにメロディが浮かんできて、途切れ途切れに歌詞も思い出してゆく様子は感動的です。大きな歴史の流れに回収されることのない、それぞれの担う物語が連想されます。

 ジミェフスキは現在開催中のヴェネチア・ビエンナーレポーランド館代表にも選ばれています。そこで発表しておられる新作を、東京と大阪で上映しようという計画もございますのでその際には是非とも皆さまご参集ください。

 

 

これも映像で、アゾロ Azorro というグループの制作です。メンバーの4人が登場しています。<<すごく気に入った>>というタイトルがついているのですが、画廊や美術館に入る前と後の様子が映りまして、ただひたすら「どうだった?」「良かった」「すごく良かった」「気に入った」と、判で押したような感想を繰り返し延々と述べ合うものです。どこに言っても同じ言葉が繰り返されます。少々身に覚えもあるのですが、別に対して気に入っていないものでも、つい「良かった」などという感想を無責任に述べてしまうことは、ままあるのではないでしょうか。「良かった」と言いながらも、表情は何となく面倒くさそうで、その言葉と身振りとのギャップもおかしみを誘います。ちなみに、メンバーの一人、イゴール・クレンツさんのお父様は著名な音楽家でいらっしゃるそうで、午前中のご発表の後にはじめて知りました。

 

 

これもアゾロのビデオ作品で<<芸術家は何をしてもいいの?>> 芸術というものは、その性質上、様々な社会規範にどうしても抵触しがちなところがあり、芸術という名のもとに、何をしてもいいのかどうか、ということについては、長らく議論されてきております。またポーランドでも近年、例えばカタジーナ・コズィラという作家が公衆浴場で盗撮したり、動物を殺して剥製にして作品に使用したり、というようなことがあり、それについて大きな議論が巻き起こりました。様々な社会のタブー、宗教や性についてのタブーの問題もあります。ただ、アゾロはこうした深刻な問題ではなくて、例えば赤信号を渡る、ポスターに落書きをする、路上にゴミを捨てる、道に唾を吐く(この写真は橋の上からメンバーたちが唾を吐いているところです)、など、子どもの悪ふざけのようなことを大まじめにやってみせます。議論の枠組みを茶化す、というか、距離を取って別の角度から見ようとしているように思われます。

 

 

アゾロの<<今ここで>>。メンバーの一人が、自転車に乗って気持ちよさそうにサイクリングをしております。空は青く澄み渡り、時折後ろに街路樹が流れてゆきます。バックでは、ボサノバの音楽が流れます。他の3人のメンバーはどこにいるのかというと… あらかじめ種明かしをしますと、実は残りのメンバーたちは、木の枝を手に持って、しゃがみながら自転車の向こうを歩いているのです。つまり、自転車は動いていなくて、後ろの木が動いているので、まるでサイクリングしているように見える、ということです。この作品は、以前紛争地域での展覧会へ招待された際に、現地の人々がとても大変そうだったので、せめて作品だけでもバカンス気分を、ということで作成されたと伺っております。今回日本にも是非、ということになりました。

 

 

これもアゾロです。<<全てやられてしまったI>>。これから何をしようか、と、メンバーが集まってアイディアを出し合っているところです。「何か新しいことをしよう」と色々と提案するのですが、全て「それはもうやってる」「見たことがある」ということで、何もすることが見つかりません。いっそ「何もしないのはどうだろう」と言ったところ「それも、もうやってる」という風に、全てかつて誰かがやってしまっています。出口のない行き止まり感の漂う会話が進むのですが、その内容の深刻さに比べて、風景は長閑で時折小鳥が鳴いたりしていますし、また会話しているメンバーたちも何となくのんびりリラックスしていて、会話内容と仕草とのギャップがここでも笑いを誘います。

 

 

アゾロの<<プロポーザル>>、短いビデオです。メンバーがみんなで留守電を聞いています。留守電では、美術館館長秘書と名乗る人が、展覧会企画について説明します。大変意義ある重要な展覧会であるとコンセプトについて述べた後、実は残念ながらスポンサーが見つからなかったので、作家招聘費は出ない、作品製作費も謝礼も出ない、カタログも作れないと思う、でも大変有意義な展覧会なので、是非出品していただけるように望んでいます、と締めくくられたとたんに、メンバー一堂爆笑。実は大変耳の痛い話で、実際こういう場面は、ここまで条件は悪くないかも知れないですが、あり得るような気がします。作家に負担を強いるような展覧会開催の在り方は改めなければいけないと思いますが、ただいつも予算が十分に確保できるわけではありません。劣悪な条件でも作品発表を続けてゆきたい場合に、いちいち怒っていては身が保たないので笑い飛ばす、というたくましさ、したたかさも感じられます。本当に展覧会企画側としては改めて反省の材料ともなります。

 

 

これはミロスワフ・バウカMirosław Bałka (1958- ) の作品です。バウカは今回の出品作家の中では年齢が高い方で、80年代の後半から既に国際的に活躍を続けておられる著名な作家です。常に自らの身体や記憶に基づいた作品を制作され、また近年ではビデオ映像なども取り入れつつ、意欲的に発表を続けておられます。これはバウカの生まれた家(現在はアトリエとして使用)を、図面に基づいて再現したものです。表面は灰で覆われています−これは日本で作成したもので、輸送費はほとんどかかりませんでしたが、そのかわり制作はものすごく大変でした。壁の高さは2.5mで、これはバウカが手を伸ばして届く高さ(とても背の高い方で、190cmあります)です。周囲に三箇所、水の出ているところがありますが、これは寝室で窓のあった場所に対応しているのだとか。

 

 

作家の両目の幅と同じ幅で取り付けられた二本の鉄のパイプから、水が流れ落ちています。会場には常にかすかに水音が響いています。この水の流れ落ちる箇所に対応するように、壁に鉄の枠が取り付けられております。このアトリエには入り口がなく、どこからも中に入ることができません。また、表面の灰は大変脆く、少し触っただけでも跡がついてしまいます。幼年時代の記憶はプライベートなものなので、誰も(本人さえも)中に入ることができない、ということや、その記憶の儚さ、もろさ、といったことを表現しているそうです。今回大阪で作成した壁を一旦ばらして、広島へ移動して組み立てておりますが、大変美しく仕上がっています。

 

 

これもバウカの作品です。1998年に国立国際美術館のグループ展「芸術と環境」に出品した後、当館で購入いたしました。天井から古びた椅子がぶら下がっています。足下には白い塩の入った鉄の輪。2つの穴が開いています。椅子の背もたれにも鉄の輪が二つ、座面には穴が一つ開いています。これらはそれぞれ、両足、両手、首に対応するのだとか。中世に用いられた拷問・拘束のための器具が思い起こされます。塩というのは人体から出る汗や涙との関連を持っており、身体の痕跡が示されます。

 

4人目の出品者(これで展覧会参加者は最後です)、パヴェウ・アルトハメル    Paweł Althamer (1967- ) は、何か既に作成された作品を展示するのではなくて、各種のパフォーマンスやイベントを提案するタイプの参加方法をしばしば取る作家です。彼自身が何かを行うこともありますし、また誰かに依頼する場合−例えば館長が一日もぎりをする、とか、路上生活者を展覧会のオープニングに招待する、とか−もあります。今回も、日本での展覧会のために何か提案してくださいとお願いしましたところ、両親を日本に派遣して、お父さんがビデオを撮影し、それを自ら編集する、というプランを提出されました。そうして出来上がったのがこの<<母さんと父さん>>です。

 

東京と大阪・広島にそれぞれ2泊ずつしていただきました。前知識のほとんどないご両親が、はじめて日本にやってきて、何をどのように見ておられるのか、ということなどがよく伝わってきまして、なかなか興味深い映像です。

 

さて、こうして展覧会出品作品についてご紹介して参りましたが、これらから感じられるのは、「中央ヨーロッパ」とか「ポーランド」というような大きな括りでの特質というよりも、各作家それぞれの表現の持つ面白さ、といったものではないかと思います。近年、こうした傾向は一層強まっているように思われます。作家たちは軽々と場所も移動しますので、必ずしも出身国と制作発表の場とが一致しない場合も増えてきています。以前では考えにくかったことです。

 

ここで少し、21世紀の現在に至る前の段階、80年代から90年代にかけての状況の変化について見ておきたいと思います。お手元にお配りした資料には、ヨーロッパで開催された、主要なポーランド現代美術関連展、及び東・中央ヨーロッパ現代美術展の一部を載せております。例えば、1988年にオックスフォード近代美術館で開催されましたポーランド現代美術展では、マグダレナ・アバカノーヴィチ Magdalena Abakanowicz (1930- )、イエジ・ベレシJerzy Bereś (1930- )、エドヴァルト・ドゥヴルニク Edward Dwurnik (1943- )、イザベラ・グストフスカ Izabella Gustowska (1948- )、イエジ・ノヴォシェルスキ Jerzy Nowosielski (1923- )レオン・タラセーヴィチ Leon Tarasewicz (1957- ) といった作家たちが紹介されていました。ちなみに、このとき美術館館長であったデイヴィッド・エリオット氏はこの後ストックホルム近代美術館館長時代には「アフター・ザ・ウォール」という壁崩壊後の中東欧地域の現代美術を紹介する大規模な展覧会を実現され(キュレーションはボヤナ・ペイジ)、また現在は六本木にあります森美術館の館長として活発な活動を行っておられます。同じく1988にウーチ美術館とグラスゴーのサードアイセンターとの共同企画で開催された「ポーランドのリアリティ:ポーランドの新しい美術」展では、上記の作家のほかに、バウカやマレック・フランダ、トマシュ・チェチェルスキやアンジェイ・シェフチクらが紹介されています。こうした作家たちは、80年代までのポーランド作家として国外で紹介されることの多少多かった人々であり、この他に早い段階で国外に制作の場を移したロマン・オパウカRoman Opałka (1931- )やクシシュトフ・ヴォディチュコ Krzysztof Wodiczko (1943- )らは国際的に既に名声を確立していました。タデウシュ・カントルTadeusz Kantor (1915-1990)と彼の劇団クリコ2も、演劇の分野においては早くから注目を集め、世界各地で公演活動が行われています。

 

冒頭で少し触れましたように、1989年に政権交代が行われ、各種の情報も一気に流通しはじめましたことから、それまであまり知られていなかった中東欧圏の戦後現代美術を再検討しようという動きがしきりに欧米で起こりました。また、作家達も西側の美術界に受け入れられようと、多種多様なトピックに飛びついたような感もあり、様々な表現が乱立しました。この頃開催された主な大きな企画展として、1994年のボンの「ヨーロッパ、ヨーロッパ」展、これはカタログも非常に充実しておりまして、今なお貴重なソースブックとして参照されることが多いと思います。ただし、この時の基本姿勢として「西欧中心で記述された美術史に欠落していた東欧美術の穴を埋めていこう」という態度が感じられた点で、西欧の枠組みや文脈に無理矢理別のものを押し込めようとする作為、その暴力的権威的な姿勢には問題が多かったのではないかと感じます。また、これとは別に1998年には、いわば当事者側からの発信と呼べばいいのでしょうか、スロヴェニアのリュブリアーナ近代ギャラリーで「身体と東 1960年から現代まで」という展覧会が企画されました。東欧現代美術を身体性をキーワードにまとめたグループ展で、非常に示唆に富む企画でした。残念ながら私はこれらの展覧会をカタログでしか知ることができず、直接展示を見逃してしまっております。1999年に開催されました「アフター・ザ・ォール」展と「アスペクト/ポジション 中央ヨーロッパの50年 1949-19999」展は、それぞれベルリンとバルセロナ会場にて見ることができました。非常に広範にわたる豊かな展示ではありましたが、反面、あまりにも多くの作品が一同に集められており、それぞれの作家の特質を際だたせるというよりも、逆にお互いに干渉しあって、効果が半減してしまっているような箇所も目立ちました。作家たちにとっては、このような、いわばサンプル的な(十把一絡げの)扱いを受けるのは不本意なことだったのではないかと思います。ベルリンでのオープニングでも、企画者の1人デイビット・エリオット氏が「このような展覧会は、一度は開催する必要があるが、二度と繰り返さなくても良い」というような発言をされておられました。つまり、混乱の後を整理する作業は必要ではあるものの、繰り返しそうした整理作業を行って作品を固定することで、いわば作品の息の根を止めてしまうことになりかねない、という危うさについて触れられたのではないかと思いました。こうした経験を踏まえ、日本で企画開催する中東欧現代美術展は、「アフター・ザ・ウォール」の成果を元に、それ以後の展開について焦点を当てよう、国ごとの違いを際だたせるような展示や、中央ヨーロッパ全体の特質を探るような方向に向かうのではなくて、作品本位の選定で、作家それぞれの表現を最もよく生かすような展示を行おうという風な合意が開催館である広島市現代美術館、東京都現代美術館と国立国際美術館それぞれの担当者間でできあがって参りました。この他、2000年にパリのジュ・ド・ポーム国立ギャラリーで開催された「ヨーロッパの反対側」という展覧会(このタイトルは何ともひどいのではないでしょうか−全く自分たちとは異なる他者としてしか見ていない、ということを明らかにするような、あからさまな差別意識の反映されたタイトルではないかと思います)、同じく2000年にドレスデンとフランクフルトで開催された「ボヘミアの鳥たち」などのグループ展が相次ぎました。

 

日本では、どのような紹介がなされていたかと申しますと、なかなか実はまとまって中東欧地域の現代美術が展示される機会はありませんでした。1970年の東京ビエンナーレには、ポーランドからエドヴァルト・クラシンスキEdward Krasiński (1925- 2004) が招かれましたが残念ながら出国叶わず、FAXによる指示を出しての展示参加になったそうです。また、1981年という比較的早い段階で「現代の絵画−東欧と日本−」というグループ展が国立国際美術館で企画開催されております。それぞれの国の美術批評家、学芸員などに協力を依頼して、数名ずつ選定してもらって実現した展覧会であったと聞いております。当時はまだ電話やFAXもつながりにくい時代でしたので、諸連絡や調整は非常に困難であったそうです。1991年にはアバカノヴィッチの個展が東京、滋賀、広島などを巡回し、1995年にはカントルの個展がセゾン美術館と伊丹市立美術館で開催されました。また1996年には東京の資生堂ギャラリーとザ・ギンザアートスペースで中央ヨーロッパ現代美術のグループ展が企画開催され、ポーランドからはピョートル・ヤロスPiotr Jaros (1965- ) が加わっております。1998年に私が国立国際美術館にて企画開催いたしました芸術と環境−エコロジーの視点から−」展では、先ほどもご紹介しましたバウカと、アウシュビッツ(オシベンチウム)強制収容所から生還し、演劇の監督もなさっておられるユゼフ・シャイナJózef Szajna (1920- )を出品いたしました。1999年にはヴォディチコがヒロシマ賞受賞記念の個展を開催し、原爆ドームに向けてのパブリック・プロジェクションを行っております。ただ、ヴォディチコは現在アメリカで活動しておられますので、出身がワルシャワである、という風な文脈で語られることは稀であり、ご本人も必ずしもそれを表立っては言及されないようにも感じます。これは、パリを拠点とするロマン・オパウカの場合も同じで、フランスの作家と見なされる場合が多いようです。これに対して、彼らの次の世代であるバウカは国際展にも多数参加し、非常に著名ではありますが、制作拠点はワルシャワ近郊のオトヴォツクの生家をアトリエとして使用しておられ、自らの生まれ育った環境、歴史、文化、といったものに根ざす作品の制作が続けられています。2000年には国際美術館で<食間に>というタイトルで彼の近作展を開催し、子どもと一般向けのワークショップも行いました。使用済みの石けんを募集したり、新聞の訃報欄を切り抜いて輪飾りを作成したりと、日常生活と密接に関わるような作品でありながら、かつ、例えば強制収容所の浴室の床が展示場に再現されていたりと、歴史的なパースペクティブも組み込んだ刺激的なインスタレーションでした。

 

近年、ポーランドでは若手中堅世代の活躍が目覚ましく、80年代から90年代にかけて紹介されることの多かった「ポーランド現代美術」とは全く異なる新たな世代が華々しく登場しています。例えば、ヴィルヘルム・サスナル Wilhelm Sasnal (1972- ) やマルチン・マチェヨフスキ Marcin Maciejowski (1974- )の平面作品は国外でも高く評価され、収集の対象となって国際的なマーケットで流通しております。このような動きを踏まえつつ、今回の展覧会ではポーランドからは3作家1グループを選びました(全体では、10作家1グループ)。今後ますます強まってゆくだろう傾向としては、作家個人の表現に重点が置かれるようになることと、ネットワークの形成が挙げられます。作家達はいつまでも「中央ヨーロッパの」作家と冠をつけて扱われることについて、そろそろやめてもらいたい、という気持ちを持っているのではないかと思います。今回の展覧会でも、数名よりそのようなご意見をいただきました。確かに、彼らはいわば国際的な現代美術様式とも呼べるような共通の特徴を帯びており、多くの特質の一要素として、出身が中央ヨーロッパである、という地理的な条件はあるものの、それだけが全てではない、それが全てを規定するのではない、という主張は尤もであると同意致します。

 


 

 


とはいえ、今のところやはり何らかの違いは見受けられます。文化的な環境、ネットワークの整備、特に美術を取り巻く批評の場、美術マーケット、展示条件などの整備がいわゆる西欧諸国に比べて劣っており、そのような環境整備が急務かと思われます。情報の流通をスムーズにすることで、これまで閉ざされていた機関相互の交流が再開し、また作家同士の交流も進むでしょう。そうすることによって、美術界全体が一層活気を帯び、制作活動が盛んに行われることと期待いたします。そしてまた、一方で国際様式を意識しつつ、他方アイデンティティの確立という困難さを担っているという立場は、実は日本美術の置かれた状況ときわめて近いものがあり、ポーランド現代美術の動向によって日本に住む我々もまた、貴重な示唆を得ることができると考えています。今後の相互交流にも期待しています。