ポーランド外国投資公社(PAIZ)

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ポーランドの四季


 
 ちょうど30年の昔、十月の半ば、生まれて初めてワルシャワの地を踏んだ。街は秋の色に染まっていた。ポーランド人の自慢する「黄金の秋」のさなかだった。数日の間、街路樹や公園の東京にはない美しさが眩く見えた。が、秋は急速に深まる。 秋と冬との境目の十一月の1日と2日が墓参の日と決まっている。二日続きのカトリックの祭日は「万聖節」と「死者の日」と呼ばれる。農閑期の入口でもあろう。夕刻から墓地全体がローソク(固めた脂に灯心のある小瓶)の光りの海となり、夜半まで厳かに賑わう。19世紀の対露蜂起を経て二度の大戦、戦時中の市民蜂起と命を全うできなかった無数の死者 ―(あの日、墓地に同行した作家の島尾敏雄さんが、のちに紀行『夢のかげを求めて』にその雰囲気ごとまとめてくださった)。
 終わればたちまち冬である。当時は最高気温が12度を切った日が続くと、市営の暖房が通ったと記憶する。身に応えたのは一日がぐんぐん短くなるように感じられたことだ。当然、寒さも増す。わたしの冬支度を見た友人が「オーバーに厚い裏地を」と街へ連れ出してくれた。ヴァトリンという名の綿入れが付いた。確か防寒靴、厚手の手袋なども。

 冬至のころは三時となればもう暗い。言葉の分からないのに輪を掛けて、暗さと寒さで気が滅入った。百までの数を夢中で覚えたのは、そのころだった。とたんに電車やバスの会話の数字の部分だけが聞こえてきた。少し元気が出た。たいていのポーランド人はへたな会話でも辛抱して聞いてくれた。「はい、なんでしょう」という意味の「スウーハム」の響きが懐かしい。 十二月の4日がバルブルキ(聖バルバラの日)、炭坑炭坑夫のパトロンでもあることから炭坑祭りでもある。6日がミコワイキ(聖ミコワイの日)。ミコワイは、サンタ・クロースと訛ることになる聖ニコラウスだから、小さな贈り物をこの日に取り交わす。クリスマスの走りである。クリスマスツリーが街の角々で売られ、やがて窓々を美しく飾る。真っ暗い冬のヨーロッパにとって最大の慰めの日、それがクリスマスだと言いたい。ポーランドのクリスマスの歌はたくさんあり、まとめてコレンダと呼ばれるが、これはカレンダーと同じ語源だそうだ。
 我々の習慣から見ればお正月はない。聖シルヴェステルの日すなわち大晦日に明け方まで家族や友人達と踊り、歌い、飲み明かす。
 「えっ、2日からもう授業だって!」と夫は悲鳴を挙げた。しかし、寒さこそ衰えないものの、日の長くなるのがひしひしと分かるのが楽しい。「羊が大きく跳ねるように」という比喩があると聞いた。雪は少ないほうだが、大雪続きの年も一冬だけ経験した。寒さは厳しくない。さほど内陸でないせいだ。奉天育ちの夫は零下20度がもっとこなくちゃ、とスケート場が少ないのと並んで不満顔であった。確かに15度以下の寒気は身が引き締まって気持ちよいものだった。

 待ちかねた春の喜びを見える形に表したものが復活祭だ。たまごを玉葱の皮で染めて、殻の上に昔ながらの模様を描くかわいらしい風習はスラブのものらしいが、復活祭のあいさつのひとつに「楽しいたまご!」というのもある。たまごは生の象徴だし、蘇り、つまり復活の意味なのだが、鶏卵の生産も一気に向上するとみえ、たまごの公定値段が一週間ごとかに値下がりた。ある年、三月の28日に28度に気温が上がり、「これってなんなの」と面食らった。その半面、夏に寒波が訪れることもある。だからポーランド暮らしには年中、セーターは手放せない。


 いつもは夏に訪れるのだが、二年前、四月半ばから五月上旬までポーランドの春を満喫した。「あら、こんな白い花があっちにもこっちにも」住んでいた昔には目に入らなかったのかと、その木を見上げながら、わたしたちは首を傾げた。四月のクヴィェチェンは花月の意だ。四月末の誕生日ごと、一本のソメイヨシノの満開の枝を植物園の入口に見に行ったのは覚えているのだが、ツバメに気づくのもそのころだ。なし、あんず、りんごの花が市民農園に咲きそい、庭々にはライラックの花と湿った空気が香ばしい。娘さん達がオーバーを脱ぎ捨て、長いあいだ隠していたミニ姿の肢体をさらけ出す。春から夏にかけて、これだけ種類があったのかと思うぐらい緑は豊富だ。ポーランドの夏はある日突然来る。もう夏至が過ぎて七月だ。菩提樹が白い花を付ける。七月の名リピェツは菩提樹から付けられている。冬の夜が長いのに対し、夏の夜は限りなく短い。そして、その後、穀物や果実の収穫が始まり夏も終わりに近づく。

(工藤 久代)