フォーラム・ポーランド Forum “POLSKA”

2007年度会議 「ワルシャワをめぐって

Konferencja 2007: Warszawa


フォーラム・ポーランド2007年大会講演レジュメ

 

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ワルシャワという言葉 ―― 開会の辞にかえて

関口時正

 

あなたの足許に捧げよう。おお、喪に服す、

ポーランドの民の寡婦よ! 

おお、血塗られた墓に眠る者たちの喪に服す、

そしてふたたびあなたが立ち上がることを知る者たちの喪に服す《母》よ、

おお! 疑心を抱いて青ざめた者どもの顔に、

自らのキリストの血をふりかける覚悟の

ワルシャワよ! この歌をあなたの足許に捧げよう、

そしてあなたの血まみれの足もとに額づこう。

  ――Juliusz Słowacki (1809-49) Ofiarowanie, w. 1-8. (1838/11/15, Firenze)

 

おお、ワルシャワよ! そなたに

今日僕が捧げる書物。たいして金箔も使ってはないが、

その血まみれの手で触れて欲しいのだ。

  ――Cyprian Norwid (1821-83 )  Rymy dorywcze, I. Dedykacja [III], w. 26-33.

 

ワルシャワには、詩人がいられる場所は今もないし、かつ一度としてあったこともなかった。

  ――Wiktor Gomulicki (1848-1919) Ciury, cz. II, Pośrodku wir, s. 26.

 

以前私は自分のエッセイの中で、ワルシャワが戦う町であるとすれば、クラクフは思索する町であるというようなことを書き、自分の留学時代にそれぞれの町の大司教だったヴィシンスキとヴォイティワの人となりや表現、行動様式の違いについて触れたことがあります。十一月蜂起、一月蜂起、ワルシャワ蜂起、そして第2次大戦後の驚くべき都市復興‥‥ 単に首都であったということを越えて、何か受難と復活のエートスというようなものが、人を抵抗や反乱に駆り立てるgenius lociのようなものがワルシャワにはあるのでしょうか。「(われわれ・かれら)チェコ人はあんな馬鹿な真似はしないから‥‥」とプラハとワルシャワを比べてよく冗談にされるようなセルフ・イメージが確かにあるのでしょうか。あるとすればそれはどのように醸成され、継承されてきたのでしょうか。

チェスワフ・ミウォシュはワルシャワ蜂起を「罰せられてしかるべき軽率な挙」と言いました。かつての国内軍の兵士であり、蜂起の参加者であったもう一人の詩人ズビグニェフ・ヘルベルトには、そんなミウォシュの言葉が到底許せる筈もなかったのですが、たとえばこの二人の歴史評価、ポーランド評価の分岐点にあるともいえるワルシャワ蜂起――その評価をめぐる論争は依然として続いています。

ヨーロッパ最大のユダヤ系住民人口を擁していたワルシャワ、そしてその地で、1943年の聖週間に決行されたゲットー蜂起。あるいは19世紀のワルシャワ・ポズィティヴィズム。わずか7年間の活動の間にあれほど多くのすぐれた文化人や学者を輩出したワルシャワのSzkoła Główna、そしてその閉校後の「飛ぶ大学」、TKN、数次にわたる地下教育の伝統。ボレスワフ・プルスの小説『人形』に活写された新興商業都市ワルシャワ。あるいはまたさらに百年さかのぼった、スタニスワフ時代のワルシャワ。

もちろん、現在に立ちかえっても、拡大EUの重要な拠点、東西交通・交易の結節点、軍事的戦略的な要衝としてのワルシャワ、現代音楽祭「ワルシャワの秋」やポスター・ビエンナーレに代表されるような文化の前線基地としてのワルシャワという見方もあるでしょう。

今年のフォーラムでは、音楽、政治、歴史、ビジネス、映画といったさまざまな分野からのお話をいただきながら、ワルシャワだからこそできたこと、ワルシャワにしかないもの、ワルシャワ的精神・風土、ワルシャワとはどういう町なのか――そんなことについて、皆さんとともに考えてみたいと思います。

 

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『ワルシャワの秋』をふりかえって

松平 朗

 

ルトスワフスキの作品に心を開かれ、この巨匠のもとで、もう一度学ぶことを選んだ私は、1970年にはじめて『ワルシャワの秋』に接した。

そこで現代音楽の古典とも言うべきバルトーク、ストラヴィンスキー、シェーンベルクなどの作品と並んで、ルトスワフスキ、セロツキ、ベイルド、ペンデレツキなどの格調の高い作品が演奏され、それに加えて前衛的な作品(少しばかり騒々しいものや、どうかと思うものも含めて)も登場する。

私はシマノフスキの音楽的位置を『ワルシャワの秋』ではじめて知った。単に生年がストラヴィンスキーと同じ、というだけでなく、その存在がポーランドの現代音楽にどれ程大きな力になっていることだろう。

演奏者の質の高さも書いておこう。必ずしも商業的に、或はメディアでもてはやされる人達ではないが、作品に深い共感と敬意を抱いて登場する、世界各国からの演奏者たちに感動した。

そして最高という言葉を使いたいのは聴衆である。ブランド名や前評判に支配されることなく、自分の耳で判断する聴衆。その審美眼の確かさ。それは怖しい存在だ。自作が『ワルシャワの秋』の舞台に登場する。それは身震いするような、緊張の一瞬だった。

 

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映画に見るワルシャワ ――キェシロフスキ監督作品を中心に――

渡辺克義

 

 ワルシャワはポーランド映画産業のメッカに位置づけられる都市ではないが、首都として各種機能が集中することから幾度となく製作現場となってきた。本報告では,断片的に実際の映像を示しながら,ポーランド映画においてワルシャワがどのように描写されてきたかを考察する。報告の前半ではワルシャワ関連の作品数点を取り上げ,ポーランド映画史上のワルシャワの位置について概観する。後半では,個別の映像作家としてクシシュトフ・キェシロスキを選び,その作品(とくに劇映画)でワルシャワがどう捉えられているかを見てゆく。

 タイトルに「ワルシャワ」ないしその派生語が含まれる作品には,タデウシュ・マカルチンスキ監督の「ワルシャワのシレナ」(1955年),スタニスワフ・レナルトヴィチ監督の「ワルシャワのジュゼッペ」(1964年),ヒエロニム・プシブィウ監督の「パリ・ワルシャワ間,ヴィザなしで」(1967年),ヘンルィク・クルバ監督の「ワルシャワ・スケッチ」(1969年),ヴウォジミェシュ・ゴワシェフスキ監督の「ワルシャワの隣人」(1991年),ダリウシュ・ガイェフスキ監督の「ワルシャワ」(2003年)などが挙げられる。タイトルに「ワルシャワ」の名こそ見えないが,レオナルト・ブチュコフスキ監督の「マリエンシュタトの冒険」(1953年),バルバラ・サス監督の「ノヴォリプキ通りの娘たち」(1985年)のように首都の地名が含まれている作品もある。タイトルにワルシャワ関連の地名がなくとも,すべてあるいはほとんどすべてがワルシャワを舞台にしている作品ともなれば,アンジェイ・ヴァイダ監督の「地下水道」(1957年),ロマン・ザウスキ監督の「おお,カロル!」(1985年)など,文字どおり枚挙に暇がない。

 キェシロスキ監督の「デカローグ」(1988年)では,ワルシャワは社会主義時代末期の人間疎外の灰色の街の象徴として描かれる。これに対し,体制転換後に製作されたポーランド・フランス合作「トリコロール 白の愛」(1994年)では希望の灯がほのかに見える都市として同市が描写されているのは興味深い。この意味では,「デカローグ」の最終作がその予兆となっていると言えよう。もっとも,キェシロフスキならではのアイロニー表現でもあるのだが。

 

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日ポ交流史のなかのワルシャワ

柴 理子

 

一説に、ポーランドのことが初めて日本に伝えられたのは13世紀後半、モンゴル帝国を介してであったという。鎖国の時代には主として蘭学者たちによって語り継がれ、さらに幕末維新という近代日本の幕開けの時代になると、新聞というメディアの登場で一般の日本人にもポーランドの名が知られるようになる。軍人の往来、外交使節の交換、文学や音楽の紹介と、両国の交流のルートは時代が進むにつれて多岐に開けていくことになるが、こうしたなかで、ワルシャワという町はいかなるものとして日本人の目に映っていたのだろうか。

ここでは、日本とポーランドの交流の歴史をひもときながら、ワルシャワがどのように日本に紹介され、日本人の間でどう語られてきたかをたどってみる。そして、他者の視点からのワルシャワ・イメージの生成と継承、もしくは変遷について考えるよすがとしたい。

 

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チューリヒ、ロンドン、ワルシャワに駐在して

渡辺和男

 

欧州3都市に駐在、銀行業務を通して得た経験を踏まえると、グローバル化するビジネス社会におけるワルシャワの発展可能性も見えてくる。言葉の要件と首都機能を備えた利便性が強力な推進力となろう。最初の勤務地チューリッヒ(5年半)、必死で学んだドイツ語とはどこか違い、日本の東北訛りにも似たスイスドイツ語、言語による明確な地域区分にも拘らず国が割れることはないスイスという国の生き方、不思議さ。2度目のロンドン(3年3ヶ月)、それなりには自信があった英語力にしばしばその限界を感じさせられながらも、金融街シティーの懐の深さには脱帽、感服。そしてワルシャワ(4年3ヶ月)、当然ながらポーランド語の壁と苦闘、そんな中で見たワルシャワ金融人の逞しさ、更に目を拡げれば人材豊富なワルシャワに逸早く注目する米国大手企業、ポーランド他地域には無いワルシャワの強みは、繰り返すが言葉と利便性、そのあたりをこの機会にまとめてみたい。

 

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両大戦間期ワルシャワの政治文化 ――ユダヤ人との共生と反ユダヤ的風潮のはざまで――

安井教浩

 

周知のように、両大戦間期のポーランドは、ポーランド人以外のさまざまな民族が全住民の3分の1を占めるという多民族国家であり、独立後の復興の中でまもなく100万都市に成長する首都ワルシャワもまた、さまざまな宗教・言語に彩られる多民族的な性格をもつ町であった。とりわけ30万余のユダヤ系住民を擁した当時のワルシャワは、ポーランドの政治・経済の中枢機能をはたす一方で、ヨーロッパにおけるユダヤ文化の一大中心地でもあった。しかし、すでに第一次世界大戦前のワルシャワで起こっていた政治的な反ユダヤ主義は、ポーランド独立後も、さまざまな政治的諸事件のなかでうねりを強めつつ、両大戦間期における首都の生活全般を規定してゆくことになる。この報告では、1922年暮れのナルトーヴィチ大統領暗殺でひとつのピークを迎えるワルシャワの反ユダヤ的風潮の政治的・社会的背景を、大戦前にまで遡る少し広い文脈の中で検討し、両大戦間期ワルシャワの政治文化ないし政治風土の一端を示してみたい。

 

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上映映画について

ワルシャワ Warszawa

2003年 カラー 105分 

監督:ダリウシュ・ガイェフスキ Dariusz Gajewski1964− )

脚本:ダリウシュ・ガイェフスキ、マテウシュ・ベドナルキェヴィッチ

撮影:ヴォイチェフ・シェペル

美術:エルヴィラ・プルータ

音楽:グループ〈コルモラヌィ〉

出演:アグニェシュカ・グロホフスカ、ウカシュ・ガルリツキ、ドミニカ・オスタウォフスカ、レフ・マツキェヴィッチ、スワヴォミル・オジェホフスキ、アンジェイ・シェイナフ、ウメダ・トモホ

字幕邦訳:工藤幸雄

 

恋人と暮らそうと上京したクララ、職探しのパヴェウ、フラメンコ・ダンサー志望のヴィクトリア、自称実業家アンジェイ、家出した娘を探す父、記憶を失ってさ迷う元蜂起兵。彼らが冬のワルシャワですごす早朝から深夜までの18時間を同時進行で描く。ガイェフスキの劇映画第1作で、2003年グディニャ・ポーランド劇映画祭のグランプリ、監督賞、脚本賞、2003-4年度アンジェイ・ムンク賞、WorldFest Independent Film Festival (米国ヒューストン) プラチナ賞など受賞多数。ワルシャワの反=観光映画、地図を持たない彷徨を体験させる作品。

 

参考サイト

http://www.momat.go.jp/FC/Polish_Film/index.html

http://www.culture.pl/pl/culture/artykuly/dz_warszawa_gajewski

http://www.filmpolski.pl/fp/index.php/1112900

 

 

協  賛

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