フォーラム・ポーランド Forum “POLSKA”


 

日ポ国交回復へのあるエピソード

―国交回復50周年記念にさいして−

 
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松本照男(在ポ・ジャーナリスト/ポーランド日本人会副会長)

1.はじめに

 第二次大戦の勃発により断交された日本とポーランド両国の国交は、戦後からほぼ12年経った1957518日に正式に回復された。つまり今年(2007年)は国交回復から半世紀の年というわけである。50年という歳月は人類の歴史からみれば一瞬のことであろうが、現在を生きる我々にとっては決して短い時間ではない。短いどころか、人が物心ついてからの50年は人生の華の時間であると断言できよう。私はこの「華の時間」のうち、すでに40年をポーランドで暮らしている。当初、2年間ということでポーランドに留学したが、社会主義国ポーランド社会がその政治体制に抗してはげしく揺れ動き、その行く末に興味がまさっていつの間にか長い時間が過ぎていった。

 国交回復から50年経った2007年時の両国関係は順風満帆といえるかもしれない。日本からのポーランドへの直接投資ははばひろく、体制転換のなった1989年以前には、ポーランドの在留邦人数が500人を超えることがなかったのが、ここ数年ですでに倍増している。居住する邦人の数が増えれば文化の違いからくる人間関係上での軋轢も生じるのではないかとも思うが、より深く真の友好関係を築き上げるためにはそうしたことも避けられない道なのかもしれないとも考える。

 生誕100年とか結婚50年などというきりのよい数字の時に人々はさまざまなお祝いをおこなうが、その意味では国交回復50周年も祝ってしかるべき祝祭年だと思う。まして、両国の間に緊張を呼び起こす軋轢もなく、ますます深くはばひろい関係に進んでいとなれば、まずは祝杯をあげてしかるべきだろう。

 この国交回復50周年記念にさいして一つのエピソードを紹介したいとおもう。それは決してドラマチックなものではないが、当時の日本を取り巻く世界の政治状況のなかで、どんな経緯で両国が国交回復の話し合いを始めたかというささやかなエピソードである。それは私の留学時のゼミナールの指導教官であったワルシャワ大学教官のリシャルド・フレレック先生にまつわる話だが、F先生は日本人である私にはっきりとわかる好意をもって接してくれた。ある時、F先生は「私は日ポ国交回復のお手伝いをしたことがありましてね。」と、外交秘史にまつわるエピソードを話してくれた。

 

2.世界大戦以前の両国関係

国交回復にまつわるエピソードをお話するまえに、両国の関係を簡単に俯瞰してみたい。幸いなことに日ポ両国の間には国民感情のもつれとなる領土や居住する少数民族などという問題は生じていない。つまり国境を接する隣国同士が通常、抱える軋轢はない。それはあえて言えば、両国の間にはロシアという巨大な国が介在していることにより、そうした問題が生じる要素がなかったともいえるかもしれない。さらにつけ加えれば、歴史上、ポーランドにとっても、また日本にとってもロシアという国は国民感情の関連から見れば決して友好国とはみなされておらず、どちらかというと敵対国という感情が強かった時代が長かった。つまり、古典的な軍事論から言えば「敵の敵は味方」というような見方がなり、日ポ両国は相互に淡い親近感をいだいていたのではなかろうか。

具体的な証拠をあげてみよう。日露戦争時に後の戦間期(1918年―1939年間)にポーランドの国家元首となったピウスツキ将軍が日本を密かに訪問し、実現にはいたらなかったが対露日ポ軍事同盟を提案したという事実もあった。また、ロシア革命後の内戦の混乱期に、シベリアに結成されたポーランド義勇軍がロシア軍に降伏後、日本軍部の援助で数千人のポーランド将兵が新興独立国の祖国ポーランドへ無事、帰還することができた。ロシア内戦の混乱の時代に、1920年から1922年にかけて、極東シベリアに吹き流されたポーランド難民の子弟、765人が日本赤十字の援助で祖国に戻ることができたが、日赤にとってもこの難民救済事業は国際的規模での初めての出来事であり、日赤史のなかで輝くべき事業として歴史に刻まれている。それにもまして、123年ぶりの国の独立を復興させたポーランドにとって、国の将来を担うべき子弟の救助には社会を挙げて日本への義挙を称賛し感謝して、ポーランド社会の中に日本という国への親近感を深く植えつけた。

歴史はしばしば皮肉な事実をひき起こす。最終的には全世界61カ国を巻き込み、約5500万人の死者と約3500万人の負傷者を生じさせた第二次世界大戦は193991日、ヒトラードイツのポーランド侵攻で勃発し、1945815日、日本の降伏文書署名で終了したわけだが、戦争勃発がポーランドでその終了が日本というのもなにやら両国関係の因縁を暗示しているようにも思える。戦争勃発以前には相互に友好国と感じていた両国だが、ポーランドは戦勝国側の連合軍に属し、日本は日独伊の三国枢軸側の敗戦国になった。しかしながら日ポ両国は相互に敵陣営に属することになったのは国際的規模での地政学的理由からであり、両国軍隊同士が戦闘を交えることはなく、敵国同士として憎みあいなどは生じることがなかったのは幸いというべきかもしれない。

 

3.日本の国際舞台への再登場

 第二次世界大戦の結果、敗戦国としての日本が世界の政治舞台に再登場できるまでには6年という歳月が流れた。再登場への要因をキー・ワード的に書けば、それは朝鮮戦争(1950年6月勃発)、サンフランシスコ対日平和条約調印(1951年9月)ということになろうか。サンフランシスコにおいて日本は世界49カ国の国々と講和条約を締結したが、ソ連、チェッコ、ポーランドは「それは新たな戦争のための条約だ。」と批判して調印を拒否したが、日本がソ連を含む全面講和にいたらなかったことについては、戦後世界のアメリカとソ連をそれぞれの陣営の盟主とする、いわゆるヤルタ体制と呼ばれた世界の二極化構造という複雑な両陣営の国益にからむ事情のなかで、日本政府の選択がなされたということだけを指摘するに留めたい。

一方、戦後のポーランドは地政学的現実から大多数の国民の意思に反して、事実上ソ連の衛星国としてその陣営の中に組み込まれてしまった.

 サンフランシスコ講和条約によって世界の政治舞台に再登場できた日本だが、ヤルタ体制陣営の一方の雄であるソ連(とその影響下にあった社会主義諸国圏)や中国との国交回復にはいたらず、またそれゆえに国際連合(以下、国連)への加盟はいまだはたすことができず、日本が名実ともに世界の政治舞台での一員として機能するためには日本の外交政策の上で一層の努力が強いられた時期であった。

 サンフランシスコ講和条約調印から5年経った、1956年という年は世界の政治舞台が大いに揺れ動いた時期であった。

クロニクル風にまとめると次のような出来事があった年である:

117日、ロンドンで日ソ国交回復協定の交渉が再開される。

224日、ソ連共産党第20回大会でスターリン批判がなされた。

628日、ポーランドのポズナン市でパンと自由を求める労働者の暴動がおこり、過酷なスターリン主義と決別する動きとなった。

1023日、ハンガリー動乱がおこり、ソ連が戦車の力で民主化運動を制圧した。

1019日、モスクワで日ソ国交回復共同宣言が調印された。(協定は1212に発効)

1218日、日本は国連に全会一致で加盟を認められた。

 日ポ国交正常化を考える場合、日ソ国交回復と日本の国連加盟が決定的な役   割を果たしたことには論をまたないであろう。特にソ連の政治的影響下にあったポーランドとしては当時の厳しい政治的現実から見れば、盟主ソ連から日本との国交正常化へのフリーハンドのお墨付きを得たと理解するのが往時の常識といえよう。一方、日本政府にとっては各国との国交正常化は国際舞台への復帰を完結させるための歩みであり、在外の日本公館の外交官たちは国交回復のためのルートを早急に模索したのではなかろうか。

 

4.日ポ国交回復への端緒はインドではじまった

ポーランド国営通信社(以下、PAP)は1956年後半、27歳の青年リシャルド・フレレックをインドのニューデリーにPAP特派員として派遣した。インドを中心に東南アジア全域をカバーするフレレック特派員はアジア諸国がポーランドにとって重要な位置を占めることは予感していたが、学生時代から日本の映画や文学作品を通して興味を抱いていた極東の地にある日本が自分の守備範囲でないことに一抹の不満をいだいていた。しかし、いまだ日本とは外交関係が結ばれていない現状から、業務で日本を訪問することはかなわず、ニューデリーの外人特派員クラブで知り合った共同通信社特派員としばしば親しく杯を交わしては日本の話にふけることが多かった。

年も押し迫り、日ソ国交回復や日本の国連加盟が実現した頃、「君!日本大使とインタビューする気があるならセットするよ」と共同通信特派員氏より願ってもない話が舞い込んできた。この提案に喜んだフレレックは「是非、お願いするよ」と、意気揚々、日本大使とのインタビューにのぞんだ。

周到に準備してきた質問事項をもとに日本大使とインタビューを続けるフレレックの「ポーランドとの今後の関係をどうみるか?」という質問に日本大使は明確な表現で、「日本政府はポーランド側と国交回復の用意あり」という言葉が飛び出した。大使のこの言葉はフレレック特派員に「特種をつかんだ!」という衝撃的な感動をもたらした。PAP編集長に長文のインタビュー記事を送り、その足で駐インドのグルジンスキ大使にも国交回復についての日本大使の言葉を伝えた。

その後の話は早かった。国交回復への客観的状況はすべて整っていたし、なににもまして、両国政府の国交回復への積極的な姿勢があったことから、国交回復交渉は国連での外交ルートに場所を移し、19572月8日にはニューヨークの国連にて加瀬俊一(かせとしかず)国連大使と駐米ユゼフ・ヴィニェヴィチ大使により国交回復協定に調印された。フランス語で作成された協定文書はわずか6条の短いものだが、同年4月には国会で批准され、518日にはワルシャワで批准書交換がおこなわれ、同日、公布、効力が発生された。この協定により日本とポーランドは正式に戦争状態を終了し、世界大戦の結果生じたそれぞれの国、団体及び国民に対する請求権を相互に放棄した。

公的機関や諸団体がマスコミに秘密事項などを意図的にリークして、それらの事項への反応をサウンドするという手法は昔からとられている手段だが、たまたまインドに駐在していたフレレック特派員に日本大使より国交回復へのリークがなされ、それが正式の外交ルートに乗って協定調印まで2ヶ月もかからなかったという、その迅速さに驚きを禁じえない。

偶然とはいえ、日ポ国交回復への橋渡し役をつとめたフレレック特派員にはPAP本社より1957年春から1ヶ月間の日本への取材旅行のご褒美がでた。フレレック氏はこれにより、両国間の国交回復後、日本を正式取材訪問した第一号のポーランドジャーナリストとなることになった。外務省や通産省の要人とのインタビューや古都京都への訪問、また「フジヤマ登山は忘れられないね!」と、久々にお会いする現在78歳の恩師フレレック先生の瞳には50年前を回顧する遥かな青年時代への想いに満ちていた。

                 

−了−

 (2007114記)

 

*初出:『ポーランド政治・社会情勢』(発行:在ポーランド日本国大使館)200721日〜7日号から4週連載。転載をご許可いただきました著者と在ポーランド日本国大使館に感謝の意を表します(編集部)。

 

 

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